تسجيل الدخول――アメリカ・ボストン。凍てつくような冬の厳しい空気と、歴史の重みを湛えた古き良き伝統が同居するこの街で、俺たちは古い煉瓦造りのアパルトマンの一室に身を寄せ合って暮らしはじめた。重い格子の窓の外では、夕暮れ時の淡い琥珀色の光が、白樺の街路樹の影を長く斜めに伸ばしている。隙間風を防ぐための古いサッシのあわいから、時折ひゅっと忍び込んでくる風は肌を刺すほどに冷たい。けれど、一歩この部屋の境界を跨げば、そこはスチームヒーターの放つ頼もしい熱気と、俺たちがここで積み重ねてきた愛おしい日々の匂いで満ちていた。珈琲の残り香、微かに残る花の葉の青さ、そして洗いたてのファブリック。 玄関のドアを開けた瞬間、「あぁ、自分たちの家に帰ってきた」と、身体の芯から安堵の溜息を漏らせるようになったのはいつからだろう。それが、冴と俺の関係が幼馴染、恋人、婚約者という名前を経て――名実ともに「家族」になったことを何よりも雄弁に物語っている気がした。ふたりでこの街に引っ越して間もない頃、慣れない英語で店員とやり取りしながら選んだ、シェードの形が丸みを帯びている間接照明。そこから零れる柔らかな飴色の光が、リビングの琥珀色のフローリングの上に、まるでふたりの記憶の残像を映し出すかのように、ゆらゆらと穏やかな影を落としていた。今日は自宅のリビングを解放して開いているフラワーアレンジメント教室で、個人レッスンをつけている小学生の男の子のレッスンの日だった。 数ヶ月前、開講して間もない頃は、それこそ文字通り閑古鳥が鳴いていた。異国の地で、実績もない日本人の男が始める教室だ、当然と言えば当然だった。けれど……冴が築いてくれた現地の人脈や、根気強く通ってくれた最初の生徒さんの口コミが、少しずつ、けれど確実に街の細い路地を伝うように広がっていった。 今では週に五日間、午後のクラスはどの年代も満席になるほどの人気ぶりだ。 おそらく、本物の日本の華道の家系に生まれ、その技術を基礎に持っているという事実が、この街の芸術を愛する人々にとって一種のエキゾチックなブランドになっているのだと思う。 けれど、俺は「香月」というその歴史ある姓を、ここでは極力伏せるようにしていた。それは自分が看板の重みに頼らず、この異郷の地で、自分の腕一本で生活をしていく上での覚悟の証明でもあった。そして何より、もうあの伝統という
「待って、苑真のプレゼント……」 「後でいいだろう」 「でも、冴も幸せになれるって、苑真が」 そう言うと、冴はちょっとだけ苛立った顔で苑真の紙袋を俺に渡してくれた。 ムードは満天だったのに、申し訳なさもある。けど、その……店を出る前に苑真に耳打ちされたのだ。 "冴と初夜を迎える前に必ず開けてね" 最初はその言葉の意味こそわからなかった。なんかいやらしいものでも入っていたら、と思うけれど、あの苑真が空港の荷物検査もあるのにそこまでして、茶化すようなものを入れ込むとも思えない。 紙袋をそっと開くと、中に入っていたのは透けるオーガンジーで出来た、目を見張るような―― 「…………ウエディングヴェール?」 そう。花嫁が、新郎にキスの前にそっと持ち上げて貰う結婚式のあれだ。 ぽかん、として両手の中にふわりと揺れるそれを見つめて、息をのむ。俺、男なんだけど、とかいうより何より、そこに刺繍された繊細なレースが、苑真からの友情を物語っていた。 「これ……」 「どうしたんだ」 冴が少し身を乗り出して、俺の手元を覗き込む。 「四葉のクローバーと……」 指先でそっとなぞりながら、刺繍を辿っていく。白い糸で縫い取られた細やかな模様たちが、オーガンジーの上にひっそりと息づいていた。 「マートル……花嫁が持つハーブで、真実の愛、って意味で。白いバラは、純粋な愛と新しい始まり。スズランは……幸福の再来、かな。それから、こっちはオレンジブロッサム。永遠の愛と多幸、だ」 言葉にするたびに、じわりと目の奥が熱くなっていく。 「全部、俺たちへの……」 最後まで言えなかった。喉が、うまく動かない。 苑真のやつ。あんな顔して、あんな口ぶりのくせに。玲央と笑いながら騒ぎ立てていたくせに、こんなものを――たった四人の、誰にも知られない小さな結婚式のために、こんなに細やかなものを用意していたのか。 ヴェールを持つ手が、微かに震えた。 冴が何も言わずに、俺の隣でそれを見ていた。 「……苑真らしい」 やがて、冴がぽつりと言った。批評でも皮肉でもなく、ただ、そのままの事実として。その声が、思いのほかやわらかかったから、俺はますます泣きそうになった。 冴が俺の手からヴェールを受け取り、そっと被せてくれる。 薄い生地が視界に落ちてくる瞬間、世界がひとつ、遠くなった。
「……一緒に来てほしい、ついて来てくれるか。美森」「うん」俺は小さく笑って、彼の目を見つめ返した。「行くよ。どこへでも」返事は一言、ただそれだけだった。これからの人生を決める約束にしては、あまりにも短く、あまりにも呆気ないやり取り。けれど、冴がどこの国へ行くか、何を学ぶかよりも、冴の隣に俺がいるということの方が、俺にとっては最初から当たり前の、世界のルールのようなものだったから。「ありがとう。……本当に」冴の手が伸びてきて、俺の後頭部を包み込むようにして、ゆっくりと自分のほうへ引き寄せた。 請われるままに彼の肩に額を預けると、仕立てのいいスーツの生地が、夜気の残りでほんの少しひんやりと冷たくなっている。けれど、そのすぐ奥にある彼の体温は、驚くほどにあたたかくて、鼓動が静かに波打っているのが伝わってきた。「……お前に、ずっと苦労をかけている気がしていたから。正直自信がなかった」「してないよ」「している。しかも、俺の勝手に付き合わせてばかりだ」「俺が好きで付き合ってるんだから、そんなの苦労って言わない」冴はしばらく何も言わなかった。返事の代わりに、俺の髪を撫でる大きな手が、愛おしさを確かめるようにゆっくりと動く。窓の外では、コペンハーゲンの夜がまだ静かに、美しく続いていた。 今日、この異国の地で俺たちは結婚して、帰国して生活が落ち着いたら、今度はふたりでアメリカへ行く準備を始める。そう考えると、人生というものは思ったよりもずっと、誰かの指先ひとつで、劇的に動いていくものだなと思った。でも、目の前にいる人、隣で体温を分け合ってくれる人が変わらないなら、それだけでいい。「はぁ……っ、冴……」俺が小さく息を吐き出すと、冴の手が俺の顎に触れ、ゆっくりと顔を持ち上げさせた。 自然と、視線が至近距離で交錯する。冴の瞳の奥に、いつになく熱く、深い光が灯っているのが見えた。ネクタイを外した彼の鎖骨のあたりから、微かに香る男らしい匂いが、鼻を掠めて部屋の中にふわりと広がる。「美森」名前を呼ぶ声が、いつの間にか熱を帯びて低くなっていた。 冴の顔が近づき、お互いの吐息が触れ合うほどの距離になる。彼の唇が、俺の唇に優しく求めるように重ねられた。一度、二度、角度を変えて深く貪るようなキスが交わされるたび、ソファの上の空気が一気に甘く、濃密なものへと変貌してい
ホテルへ戻る道は、冴と二人きりで静かに歩いた。 先ほどまでいたレストランの横を流れる運河の前で、玲央と苑真とは別れたからだ。 「明日また、容赦なく観光に連れ回してやるからな」 「美森たちに構いすぎるな。少しはふたりきりにしてやれ」 玲央が少し呆れたようにたしなめている。そんなふたりの賑やかな掛け合いが、コペンハーゲンの冷たい夜の街に溶けて遠ざかっていく。 それを背中で聞きながら、俺たちは街灯に照らされた石畳の道を、互いの歩調を合わせるようにゆっくりと進んだ。石畳の継ぎ目を踏むたびに、靴底から微かな振動が足へと伝わってくる。 運河沿いに立ち並ぶ建物の窓から漏れる橙色の光が、濡れた石の上に幾つもの小さな水溜まりのような反射を作っていた。人の声はもうどこにも聞こえない。聞こえるのは、自分たちの息の白さと、遠くの水面がかすかに波打つ音だけだった。 不意に、冴の手が自然な動作で俺の指先を掠め、そのまま包み込むようにして手を繋ぐ。 「冴?」 「もう、婚姻関係になったんだ。それに、この国だったら誰にも白い目で見られない。香月の家だとか、後堂のブランドだとか。そういうしがらみがなく、過ごせるだろう?」 「……うん、そうだね」 冴の声は静かで、言い訳でも確認でもなく、ただ事実を口にしているような響きだった。俺は彼女の横顔をちらりと見た。街灯の光の中で、冴は正面を向いたまま、どこか遠くを見ているようだった。 あの後も、俺たちはお互いの実家と何も連絡を取っていない。 たまに、俺は雲雀兄さんから、冴は嶺さんから近況報告のような便りが届くことこそあれど、それ以上深入りしないというか、過度な接触はしないようにしていた。二つの家の間にある、言葉にならない距離感を、俺たちはまだどう扱えばいいのか、答えを出せずにいる。それでも今夜くらいは、そのことを考えずにいてもいいだろうと思った。 本当だったら、お互いの家族に囲まれて、それこそあの日の結納のように、たくさんの人の祝福を受けることこそが「家にとって」の幸せなのかもしれない。けれど、たった四人しかいない結婚式だったとしても、冴と俺は十分に満たされていた。 (……いつか、冴のお母さんの墓前でも、すべてを報告しなくちゃ。きっと冴自身も、胸のどこかでそれを考えているはずだ) その思いが脳
「え……? アメリカの、大学院?」 驚きを隠しきれず、思わず冴の横顔を凝視する。 アメリカ。確かに目指しているとは言っていたけれど、有言実行するなんて、俺は一度も相談されていない――。 俺の動揺を察したのか、冴は少しだけ眉を下げ、目を細めた。 「美森、まだ話していなかったな」 「……本当だよ。俺、何も聞いてないんだけど」 少しだけ声が尖ってしまったかもしれない。 驚きと、ほんの少しの寂しさが胸を掠める。 冴は俺の左手をテーブルの下でそっと包み込み、耳元で低く囁いた。 「すまない。隠すつもりはなかったんだ。ホテルに戻ったら、詳しく話す」 その真摯な瞳に見つめられると、それ以上は何も言えなくなる。けれど、向かいの席のツッコミ担当がそれを逃すはずがなかった。 「おいおい新婚初日から重大な密約かよ! 報連相がなってないぞ、旦那さん!」「やめろ、茶化すな」 玲央がニヤニヤしながらすかさず突っ込んでくる。さらに苑真が、大袈裟に両手を頬に当てて悲鳴をあげた。 「え〜! 冴もアメリカ行っちゃうの!? 玲央と二人でニューヨーカー気取り? ずるい、俺も混ぜてよ! ベルリンで一人ぼっちにされたら、寂しくて死んじゃう!」 「お前は寂しがりのウサギか。つーかアメリカのどこだよ、国が広すぎるわ!」 玲央が間髪入れずに叩くと、冴は淡々と答えた。 「玲央の声は州を跨いでも届きそうだな」 「なにそれ、わざわざデンマークに来てまで俺のこと馬鹿にすんの!?」 声を揃えて突っ込む玲央と苑真の姿に、胸の奥のモヤモヤが一瞬で吹き飛んでいく。 冴がアメリカに行く。その事実にはまだ驚いているけれど、冴が自分の未来を、そして俺たちの未来をどう描いているのか、後でじっくり聞けばいい。 場所が変わっても、俺たちはそれぞれ違う空の下で生きていても、こうして集まれば一瞬で高校時代のあの距離に戻れる。その絶対的な安心感が、今の俺にはたまらなく愛おしかった。 『Her er vores klassiske æbletærte, serveret med hjemmelavet vaniljeis.』 (当店自慢のリンゴタルトと、自家製バニラアイスクリーム添えでございます) デザートに運ばれてきたのは、リンゴのタルトにバニラアイスクリーム。薄切りにされたリンゴが、まるで大輪
運河沿いに続く、歴史を感じさせる石畳の路地。その一角にひっそりと佇む小さなレストランが、挙式を終えた今夜の俺たち四人の目的地だった。テーブルのあちこちで揺れるロウソクの灯りが、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。窓の外に目をやれば、夜のコペンハーゲンが静かに息づいていて、水面に街の灯が映ってきらきらと揺れていた。六月のデンマークは驚くほど日が長くて、時計の針が九時を過ぎていても、空の端には絵の具を薄く溶かしたような残照がまだしがみついている。その不思議な薄明かりが、俺たちの特別な夜を祝福してくれているようだった。「じゃじゃーん! どうよこの店! 俺のオシャレセンサーとリサーチ能力が奇跡の融合を果たした結果がこれよ。褒めていいぞ、二人とも!」メニューを広げながら、苑真がさっそく両手を広げて大袈裟に胸を張った。高校時代から変わらない、調子のいいおちゃらけた口調だ。 すかさず、隣に座る玲央から鋭いツッコミが飛ぶ。「はいはい、ネットのレビュー星四つ半だったって、スマホ見せながらドヤ顔してたの知ってるから。自分で足使って開拓したみたいに言うな」「えー、いいじゃん別に! プロセスの違いなんて些細なことだよ。大事なのは結果!」相変わらずの二人のやり取りに、俺は思わず頬が緩む。「さすが苑真、仕事が早いのは本当にありがたいよ」俺が苦笑交じりに感心していると、隣に座る冴が静かにワインリストを閉じた。「美森、飲めるか?」覗き込むような冴の低い声と視線に、胸が小さく跳ねる。普段、お酒は飲まない。冴と暮らしてからだって、お互いの誕生日にちょこっと嗜む程度だった。「うん、今日くらいは」指輪のはまった冴の大きな手が、ウェイターにスマートに合図を送る。その一連の動作の格好良さに、未だに少しだけ照れてしまう。「あ、美森がデレてる。見せつけてくれるじゃーん」「そ、そんなつもりは……」「いいんだぜ? 久しぶりの再会なんだし。もっとイチャイチャしてんの見せつけても」乾杯のグラスが運ばれてくるのを待つ間も、テーブルの上は賑やかだった。「いやーしかし、まさかこんな北欧の地で再集合するとはな。ニューヨークから飛行機乗ってきた甲斐があったわ」玲央がしみじみと呟くと、苑真がチッチッチ、と大袈裟に指を振った。「甘いね玲央。ベルリンからの愛の距離に比べたら、ニューヨークなん
【side:香月美森】 最近、冴の様子がなんだかおかしい。 いつも冷静沈着で、どこか余裕があって。大学の課題も、塾講のアルバイトも、家のことだって率先してそつなくこなす彼が、家に帰ってくるとどこか落ち着きをなくしている。 ソファーに座ったかと思えばすぐに立ち上がって掃除を始めたり、意味もなくキッチンをうろついたり——まるで自分から忙しくしようとしているみたいだった。 何かあったのかな、とは思う。でも、ありのままを冴が話してくれるとは、正直あまり思えなかった。 悩みも、不安も、できるだけ一人で抱えて解決しようとする。恋人として、もっとそばに寄り添えたらとも思うけれど——待つことだって
【――同棲開始・プロポーズから数年後】 美森との二人暮らしが始まってから、早三度目の春が巡ってきた。 この小さなアパートでの生活にも、いつの間にかすっかり馴染んだ。慣れない環境に振り回されて熱を出したり、体調を崩したりすることも、めっきり少なくなった。 俺の塾講師のアルバイトと、美森のフラワーアレンジメントの非常勤講師。互いの稼ぎを合わせても、いまだに贅沢な暮らしとはとても言えない。それでも慎ましく、節約を重ねるこの日々の中で、俺たちはいつしか「ささやかな幸せ」を言葉にしなくても自然と共有できるようになっていた。 ふと思い立って、自分の預金通帳と一緒に、引き出しの奥から眠ってい
ただ、暗い部屋の隅で膝を抱え、嵐が過ぎ去るのを待つ小鳥のように、ひっそりと息を潜めていただけ。 そのあまりに静かで献身的な絶望こそが、傍にいる俺の心を、どんな叫び声よりも激しく揺さぶり続けていた。 一方で、黒瀬と羽鳥は、謝罪の一つもないまま海外の兄弟校へ「留学」という名の逃げ道を辿った。 彼らの親も、愛息の人生に「誘拐」や「窃盗、盗撮」といった噂が付くのを恐れたのだろう。 最後に俺が黒瀬と顔を合わせて話したのは、祈里さんたちと四者で話し合いを終えた後。学園の生徒会室でのことだった。『……失礼します。私に話があると、お聞きしたのですが』『とりあえず座れ。……単刀直入に訊く。
「嶺……お前の息子だろ、どうにかしろ!」 そのか細い、泣き声のような叫びに、冴の父は顔を歪めた。「お前が、俺への愛を示すために、永久に愛し続けると言った。……子供同士を結婚させて、家同士を繋ぎ、生涯俺たちが繋がる『印』を残すと言った……っ! お前の妻……あの役に立たない“孕み袋”の代わりに、俺が三人も種を植え付けさせられた。大金を払って違法な遺伝子操作までして、女が産まれるように調整もした……! その結果が、このザマだ」 その告白に、俺は血の気が引くのを感じた。 俺が生まれてきた理由さえも、父親同士の歪んだ愛を繋ぎ止めるための「道具」でしかなかったと、突き付けられたから。「お前は







